投稿した人:谷本憲司/神戸 on May 22, 2003 at 06:31:11:
【「場内」での笑い声】
税理士会の支部総会でのことだ。場内に笑い声が起こった。質問者に立っていたのは私だった。その時の笑い声を私に対する冷笑だと受け取った人がいた。まるで、私は思いもしなかったことだ。笑い声を誘ったのは、私の意図に出たものだった。それが私の主観だったのだ。
印象など、人それぞれで何の決め手にもならない。場内の失笑の渦を、冷笑だなんて取りようをする人もこの世にはいるものだ。あきれたものだ。私は何もあの笑いの瞬間をそのように解釈はしていない。思わず笑った人が大勢いた、ただそれだけのことだ。失笑の意味をそんなふうに冷たく感じる人がいただなんて、私はある人の感想を聞くまでは考えもしなかった。
いたしかたもない。鉄砲玉は前や後ろや、敵や味方?からも飛んでくるのだ、と思えば苦笑いするよりほかない。この御仁は、ご丁寧にも、私が失笑をあびないためには「説得力」を持たないといかん、などとのたまうのだ。なんとも奇妙な考え方だ。
そんなことより議論の大切さが肝心だろう。なぜ質問者だけが、聴衆のほうに回る出席者に気をつかって、説得力をもたなければならないのか。バカらしい発想で、何だか変だ。私に言わせれば、説得力が試されているのは、あくまでも議案提案者の執行部なのだ。
だから、総会参加者はだれであっても、どうぞ発言して欲しいという意味もあって、私が誘いの発言をして失笑を買ったとしても、そのこと自体、私には何の責任もないはずだ。また、その笑いを冷笑にとるだなんて、話にもならないことだ。
仏説は、舎利仏が釈迦に問いかけて始まる。そこでは、問いかける人物が待望されている。その問いかけをする行為が第一歩なのだ、と私は考える。私の質問には見るべきものがあったけれど、説得力を持てだなんて感想に対して、私はとうてい同意できない。
なぜ、そんなことを私に伝えるのか。何の意味も無いことだ。あるいはまったく無意味どころか、私を傷つける効果しかない。それが、なぜ分からないのか。
世の人はじつにさまざまで、いろいろ感じたり、言ったりするものだ。ときには私にとって、まるで理解の外のことや別世界の話になることもあるわけだ。






