投稿した人:谷本憲司/神戸 on April 21, 2003 at 06:49:51:
【メールの性格】
2001年6月22日パソコンをインターネットに接続した。これで私もネットやメールを楽しむ生活環境を整えたのだった。
高齢化、国際化、情報化の流れは、わが国をどの方向に導くことになるのか。希望と不安の交錯する時代背景にあって、IT革命は、この国の課題であるセーフティーネットを構築することに役立つのだろうか。それとも、ネット弱者が大量に生み出されるのだろうか。必ずしも予断は許されない。
メールが手紙に近いという意見がある。しかし私の体験では、返事を楽しみに待っているような「手紙」をメール送信したにもかかわらず、音沙汰なしに終わるケースもあった。
メールの性格は、「電子メモ」のやり取りだ、というのが私の実感なのだ。ファクス送信の場合、私は手紙の形式を崩すことなく、拝啓で始めて、時候の挨拶、用件を書き、敬具で終わるようにしている。
ところが、メールでは、文字の位置が送受信の過程で動き、行替えや、1行の字数も書き手の自由自在とはなかなか上手くいかず、やはり「手紙」というよりは、「メモ」にしかならないようだ。それに、メールの書き方のテキストでは、「拝啓」や「敬具」の従来の手紙の形式を嘲弄したり、省略を勧めている解説文も目にした。
私はケータイを持っていないので、「パソコンメール」しか送受信できない。ところが、メール交信した相手の一人は、同年齢なのだが、「ケータイメール」だけを好んで、頑として「パソコンメール」を拒ばんだ。それでこちらはパソコンで、向こうはケータイでメール交信する羽目になったものだ。
このケータイ男に言わせると、パソコンの前にいちいち座るのは面倒で、ケータイなら持ち運びに便利で、自由自在だ、という主張だった。そのケータイ君は、旅先からその旨や今からホテルを出る、などと知らせてきた。2行ほどを3度に分けてケータイメールを送ってきた。ケータイさんが、強情を張るものだから、お返しに長文を書いてファクス送信した。
同じ卒業高校の往年の名物先生の訃報があり、なぜか私のところまでも追悼文の依頼が来たので、生まれて始めての「追悼文」をものした。相当の長文なので、ケータイさんへファクス送信してやった。そうすると彼から電話の応答があった。
要するにケータイさんの主張は、パソコンなんかを卒業してケータイメールを駆使しているという格好付けなのである。ケータイさんは、毎朝パソコンで株式情報を得ているそうである。けれども、メールはケータイに限るという意見を変えずに実行している日常なのだ。
その後ケータイ氏とは、はがきで暑中見舞のやり取りをした。彼が盆の墓参を済ませて今年の夏は終わったという感想だった。それを読んだ私どもも、その後墓参りに出向いた経緯を、これは彼のケータイへメール送信した。ともかくパソコンのメールアドレスを知らせてもらってないので、短文しか送れなかった。次の日、ケータイ氏からメールの返事が届いた。






